思想でもって生きている人間、というのが好きだ。
その思想の中身の如何を問わず、凡そ個人の悩みとしては壮大で、ともすれば尊大な物を持ち、その事に自覚的でありながらも行動にうつしている人たちが好きだ。それが無為と言われようが、そのために生きられる彼らが好きだ。
世間に注目されるでもなく、市井で静かに己の思想を研鑽する姿は愛おしいものだ。

増田[1]で下記のような投稿があった。
トリアージ[2]
これ自体はネタ投稿[3]なのだが、"トリアージ"という言葉で思い出した事があったので紹介する。

以前、日本機械学会のコラムを読んでいて興味深いものがあった。
JSME談話室「き・か・い」No.120 「コンストラクタル法則とエントロピー極大をめぐって」|日本機会学会
著者は、エイドリアン・ベジャン「流れとかたち」[4]の翻訳本の解説をされていた方で、コラムではそれにまつわるエピソードが書かれている。前半はこの本の話だが、後半はこの本の読者A氏の投稿について語られている。これが面白い。

A氏は医務官であったが、"トリアージ(選別治療)"など戦場医療倫理に対する思想的葛藤を持っていた。その葛藤の末、倫理のあり方を、「世界のあり方」から求めようとしたのである。

僕の感想はコラムの著者に同意だ。

このような形而上学的苦悩から職を辞して、冒険的人生を歩もうとしている人がいるということは驚きであった。同時に日本もなかなか捨てた国ではないなという気持ちになり、私自身大いに勇気をもらった次第である。

A氏の話は難解で、恐らく僕に理解することはできない。だが、現代を生きる一人の人間が、人生を「世界のあり方」にかけて生きているという姿は、とてもドキドキする。

僕の好きな話のひとつなのだ。


  1. 「はてな匿名ダイアリー」の事。AnonymousDiary、アノニマスダイアリー。 ↩︎

  2. トリアージ - Wikipedia ↩︎

  3. 因みに、この投稿は、5-7-5の韻律で、最初5で名詞、あとの7-5でその名詞を説明するというお題であった。僕は「エトセトラ(ラテン語だけど訳すと等)」とコメントした。 ↩︎

  4. エイドリアン・ベジャン「流れとかたち」(2013)。べジャンの提唱する「コンストラクタル法則」という熱力学法則に対する啓蒙本。僕も流し読み程度に読んだが、中々面白い話であった。(言い回しがかなりくどく感じたが)「水は低きに流れ、人は易きに流れる」(これ原典は孟子?)とは、ちょっと違うけど、世界の流れが見えてくるようで楽しいお話でした。仕事で偶々「層流と乱流」について考えてる時期に読んだので、個人的にもタイムリーだったな、という思い出。 ↩︎

日本のアニメ業界は近未来SFをAKIRA・攻殻機動隊の延長で作りがち? - Togetter

切欠

はてブの反応。大体言いたいことは言われている。
[B! SF] 日本のアニメ業界は近未来SFをAKIRA・攻殻機動隊の延長で作りがち? - Togetter

このツイートに対しては「そんなことないやろ」で終わりだし、個人の一ツイートにtwitter外から何か言う気もないのだが、"近未来SFのビジュアル"を現在考えるのは割と難しいな、と思った。

というのも、現在が割と"近未来"っぽくなってしまったからに他ならない。いや、これまでの"近未来"がこないことがわかってしまったという方が正確か。ゼロ年代の近未来イメージの中心はインターネットだったと思うし、そこにはサイバーパンクやニューエイジの文脈があった。みんながつながれば何かが起きる気がしていた。[1]だけど、実際にスマホが普及してみると、人はやっぱりただの人だった。技術のみが発達しても、それを使う人が変わらない限り、その技術は何かのオルタナティブになるだけなんだ。結局、世界も人も変わらず、身にまとうものが流行りで変わっているだけなんじゃないか、という確信のほうが強くなっちゃった。その確信の中で、ビジュアルでインパクトのあるもの、つまり、ハードウェアでどうこうしてるSFの方が胡散臭いというか、SFってもっとソフトかウェットなもんじゃん、という意識のほうが強くなっているんじゃないかと。でも、そんなのSF的にはずっと昔からやってるじゃんってのはそのとおり。[2]だけど、多くの人にとっては、今になってそれをようやく実感を持って受け入れる状況になってきたんじゃないのかな。だから、逆に今ビジュアルに頼ったSFを欲しがるのって、それ自体がなんか古くない?って感じたりしたりして。要は、スターウォーズはSFじゃない、みたいな話。但し、そう言ってるのが一般人っていう。そういう意味で、今スターウォーズやるのは難しい。なんか新しい映画やってるけど、見てないから僕は知らん。[3]

ついでに最近こんなのを見かけた。いい例えば話になりそう。

「ついにこの日が来たか…」クリスタをアップデートしたら保存アイコンがフロッピーじゃなくなってた「なんだと…」「Oh…」 - Togetter

まさにビジュアル(ハード)によらなくなってることの証左のように思う。昔は、保存したいデータは記憶媒体に保存していたわけだが、今じゃクラウドにぽい、だ。クリスタはHDDかSSDに保存するイメージでこのアイコンにしたのだろうが、データを保存するときに「記憶媒体に書き込んでいる」と意識するのがもう古い感覚なように思う。やりたいこと(保存)と、姿形のあるもの(記憶媒体)との連想がないので、このアプローチでアイコンを作るのは難しい。じゃあ、この場合、わかりやすいアイコンってなんだろうと考えると、「SAVE」って書かれたアイコンでいいんじゃないかと思う。ビジュアル的には全くおもしろくないけど。そういうことなんですよ。

まあ、ここまで言っておいてなんだが、かっちょいーデザインは今でももさもさ出てくるし。別に難しいだけで、無理だとは全く思わないので、今後を楽しみにしていこ。
あれ、それじゃあ、これって単に僕の想像力が足りてないだけという話になるのか?(Q.E.D)


  1. ガイア理論 - Wikipedia ↩︎

  2. ウェットウェアですら89年だもんね。ロボットものなんてR.U.R(1920)からしてソフトの話だったしなあ・・・。AI関連もそういう話になりがちだし。そういう意味で言えば、攻殻機動隊ARISE(2013)は今のハードウェアの問題を話の軸においてて面白かった。サイボーグの体は常にメンテナンスとアップデートが必要という世知辛い話。黒電話は50年使えたけど、スマホはいくらメンテしてもネットサービスやアプリが対応しなくなるから10年も使えない。設計する時は「変わりにくいものに依存しろ」って考えるもんだけど、今のマシンって変わりやすいものに依存しすぎてるんだよな。だから企業が儲かる。ARISEはそんなお話。 ↩︎

  3. スターウォーズは新三部作(ep.1,2,3)までは見たはずだけど、ほぼ覚えてないし、そんなにハマらなかったんだよなあ。あれ騎士物語とかそういうファンタジーだし。やっぱSFはサイエンスなギミックが物語の中核にないと。(特にSFに造詣が深い訳ではないので、かなり個人的な意見だ) ↩︎

僕は人形が好きだ。

人形という存在が愛おしくてたまらないのだが、何故愛おしいかと問われると答えるのは容易ではない。
しかし、僕の人形愛は、僕の自己愛のカタチであることは間違いなさそうである。
僕はどうにも"他者"というものを本当のところ愛することができない。愛のすべてが自己愛に帰結するとは思わないが、少なくとも僕にとっての愛はすべて自己愛に帰結する。
それがわかった上で、他者を僕の自己愛に巻き込むという行為がどうにも気持ちが悪い。子供の頃に言われた「人様に迷惑を掛けるな」という言葉の呪いなのか、自分事に他人を巻き込む事に忌避感に近い躊躇いがある。さらに言えば、愛とは、暴力的な側面も持っている。誰かが殴っていいよと言ってきても、喜々として殴ることはできない。そういう感覚がある。これは、僕が他者を愛せないのは、ただ僕が愛したくないというだけかも知れない。
まあ、このように、愛することが全て自己愛である"人でなし"にとって、人形は素晴らしい存在なのだ。[1]
人形は人ではないが、ただの物でもない。また人形は彫刻とも違う。人でないのに人に寄り添い、物なのに物言わぬ事が異様であり、だが決定的に彼らには意思がない。それが人形だ。
その有り様に僕はどうしても共感してしまう。共感する相手など実際のところ存在しないにも関わらず。
そう、これが面白い。人形に対して抱く感情は、あたかも人に対する感情のようであるが、それは全て自己から生まれるものでしかない。もしも、人形が自分を愛してくれいると思っているなら、それは人形を通して自己を愛していることに他ならない。そこにあるのは、人形を鏡とした、自己愛の自己完結だ。人形を愛することで、僕ら"人でなし"は、ようやく愛することができるのだ。
そんなエゴイズムに利用される人形達は憐れだろうか。いや、その感情もまた人形を糧にしたエゴイズムに過ぎない。熱く愛し合おうが無残に壊されようが、人形たちは何も感じないし、何も考えない。それがわかっているのに、僕らはどうしようもなく人形を感じるし、考えてしまう。その時、僕らは、僕らを感じている。そうさせてくれる存在が愛おしくない訳がないじゃないか。
朝起きて僕はキミに「おはよう」を言う。キミは伽藍堂の体と空虚な目で、僕を見つめ返してくれる。それだけで、僕はまだ僕を愛していられるのだ、と確信できる。幸せだ。この幸福をくれるキミのことが、人形のことが、僕はたまらなく愛おしい。

僕は人形が好きだ。


  1. 青空文庫 江戸川乱歩:人でなしの恋(1926) ↩︎

もっと普通に日記をつけたい。
これはずっと言っているのだが、なかなか実行できていない。
前に書いた日記も妙に衒学的で僕の賢しらなところがでている。よくない。
こう・・・あるじゃないですか。通勤中に見かけたお花がすごくかわいかったんだけど、なんて名だろう、とかそういう普通の日常的なやつ?そもそも、そういう意味で本当に日常の出来事を書いたことってのはあまりないかも知れないな。Twitterのつぶやきがそれに近いが、あんなのほぼ鳴き声みたいなもんだし。そう考えると日記を書くっていうのはなかなか難しいのかも知れない。難しいことが中々できないのは当然である。よって、僕がまともに日記を書けないことも当然なのである。よし。

まあ、そんな言い訳をずっとしていても詮無いので、はてブのコメントくらいのノリで1週間毎くらいには日記を書いていきたい。はてブのコメントみたい、っていうか、はてブのコメントじゃ書ききれなかったことを書いていくので、いいんじゃないでしょうか。よし。

めっちゃまとまりのない話するからね。バックスペース使わない気で行こう。

ネットというかtwitterの言い争い

ネットを支配する「シニシズム」「冷笑主義」という魔物の正体(津田 正太郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/8)

議論するには、議題と議場が最低限必要だが、twitterにはそれがないってだけでは。テキストで議論できないわけでなし。そも「議論ができるか」の前に「議論したいのか」と問えば「言い争い」をしたいだけなんじゃ。

2019/12/01 12:02

"ネットで「議論」は可能なのか?“という問については、別にできんじゃねーの、としか思わない。ネットと言う言葉がふわふわすぎるから、そう言わざるを得ない。テキストベースじゃ議論できないってこともないわけだし。ボイチャでもVRでも手段はなんでもいいけど、言語でコミュニケーションとれるなら、議論はできるだろう。問題は、ツールじゃなくて、人のほうだと。記事内容もそういう話だろうに、最後で飛ばしてる感。最近の"ネット論争"ってほぼtwitterの話題だと思うのだが、twitterでの論争は論争足り得ていないだろう。そもそも、あのサービスはシステム上議論に全く向いていないというか、元々「つぶやく」だけのツールなので、一方的に言い放つのに特化している。議論には、議題と議場が最低限必要だ。何について議論するのかの設定は当然必要であるが、議論する場所を限定することもまた必要だ。議題だけがあって、誰でも彼でも好き勝手な場所でくちゃべっていても何もまとまらない。しかし、twitterはそういうところなので、案の定話がまとまらない。スレッドという機能もあるが、ユーザはそんなの関係なく発言できてしまうので、あまり意味はない。要は、twitterでまともに議論しようと言うのが難しい。議論したいなら議論する用の連携サービスがあってもいいんじゃないだろうか。twitterがそういうサービスやってくれれば誘導しやすくていいのにね。
そして、頭が痛いことにtwitterで言い争っている人たちは、このことを自覚していない。若しくは、無視しており、何れにしろ、実際のところ真面目に議論する気はないのだろう。記事でも”「議論の場」を本当に実現したいのであれば、相手側の動機を分析したりするのは基本的にご法度"と言っている通りで、その基本のきの字も押さえない態度は、議論する気がないのだと思わざるをえない。いや、「議論する価値もない」と思っているからこそ、前提の合意形成もしようとせず、罵倒、人格攻撃、口調批判が目立ち、どうでもいい意見表明ばかり溢れるのかも知れない。結局、議論したいわけではなく、言い争いをしたいか、もっと端的に言えば感情の吐露、大げさに独り言を「つぶやき」たいだけなのだと思う。
別にそれ自体は、まあ、いい。僕がこうしてここで「つぶやき」ができるのもネットの自由主義的な風土のおかげである。ただ、僕が気にかかっているのは、ただの"言い争い"が"論争"扱いされてしまうことだけだ。声のデカさで真実が決まるなんて、そんなの嫌だぞ、僕は。

今日用無し

31歳東大准教授が「進学校より高専」を勧める深い理由 | デイリー新潮

一応、高専擁護のために言っておくけど、高専も一般科目必修ですからね。国語も歴史も倫理も政治経済も。1,2年はほぼ一般教養で、専門科目が増え始めるのは3年からですよ。そりゃ普通高校と比べたら少ないだろうが。

2019/11/24 13:51

最近話題だった東大特任准教授のインタビュー、にはあまり興味ない。しかし、ブコメで高専卒を見下すものが意外と多くて驚いた。まあ、それは意見として別に気にならないのだが、「高専は専門科目しかやらない」という事実と反する事が書かれていたので、一応コメントしておいた。「高専卒からの大学編入だと3年からになるので、大学での教養課程は飛ばされるよね」というならわかるし、その通りだと思う。ぶっちゃけ僕も高専卒なので、そんなに教養がある方ではない。
いやあ、"教養"に対してはコンプレックスすらある気がするぞ。知識人コンプレックス?その結果、妙に衒学的になって、それっぽいことをそれっぽく言うのばかり上手になってるような・・・。いや、やめやめ、詮無い詮無い。毎年歴史の教科書を買い直して読んでる人なんかホント偉いし、尊敬する。僕みたいにソ連本買って「女子の制服がメイド服って天国かよ・・・」[1]と想いに耽っている輩とは違う。地下室の住人ですよ。僕は。[2]

要求不満

お前たちの仕様の伝え方は間違っている! - Speaker Deck

仕様(どうする)ではなくて要求(どうしたい)の話では。要求分析と要求仕様の話がごっちゃになっている気がする。

2019/11/23 16:59

コメントしてる通りなのだが、仕様と要求の話がごっちゃになっていて、こう、むずむずする。まともな要求仕様が作られていないんじゃないかと怖くなる。「ストーリーをつけると要求が意味するところの具体例がわかっていいね!」という意見自体は肯定するが、要求を把握せずに仕様を作っているような状況があるなら、もっと根本的な問題があるだろう。詳細仕様書でふわふわした(実現可能性と検証可能性が見えない)表現をしてるならそれが問題だし、要求仕様書で要求と仕様が結びついてない(仕様の属する要求が不明確)なんてありえないだろうしなあ・・・。

ついでにこれ

元週刊少年ジャンプ編集者が漫画家から学んだことを書いていく | 第6回 漫画の打ち合わせでよくあるミス第1位とは?~「すれ違い」に気をつけろ!~

だから要件定義書では、まず用語の定義から入る

2019/11/23 16:32

そのまんまです。要件をまとめるときは、その要件で使っている用語についてまず定義します。誰かと一緒に何かを決める時は、前提の合意形成が必須という当たり前のお話。まあ、その当たり前をするのが難しかったりするけどね・・・。「なんでこいつそんなアタリマエのこと確認してくるんだ?」って人もいるし、ひどけりゃ「それどうでもよくないですか?」なんていう人もいるもんだ。どうでもいいって言うならどうでもいいなりに対応すると、「なんでこうなってないんだ!?こうするのはアタリマエだろ!」なんて言ってきたりして。・・・要求開発って大変だね。あれ、なにこれ愚痴?

おわり

日記でした。


  1. 速水螺旋人・津久田重吾「いまさらですがソ連邦」(2018)、で読んだ。実際には、制服というよりフォーマル着らしいので、みんな統一デザインという訳ではない。ふわふわリボンがかわいいのだ。ゲストコラムで広江礼威がバラライカのソ連時代メイド服を描いていたのも眼福でした。 ↩︎

  2. ドストエフスキー「地下室の手記」(1864)から。仲間内のDiscord鯖名が「地下室2.0」だったりする。結構気に入っている。因みに、本編では娼婦に説教するシーンがもうホントどうしようもなくて好き。僕自身がどうしようもない存在なので、共感せざるを得ない。いや、それを口に出せるだけ、僕は彼にもなりきれない存在なのだろうと思うがね。 ↩︎

2018年3月に起きたUberの自動運転車による歩行者死亡事故について、先日11月5日に国家運輸安全委員会(NTSB)から調査報告が公表された。報告の中では、設計上の問題や、組織的な問題などが指摘されており、非常に興味深い内容だった。

Vehicle Automation Report - HWY18MH010,NTSB,2019

抄訳としては、WIREDの記事がわかりやすかった。
死亡事故を起こしたUberの自律走行車は、「車道を渡る歩行者」を想定していなかった:調査報告から明らかに|WIRED.jp

NTSBが公開してる他の資料を見たい方は下記を参照。
HWY18MH010,NTSB

そもそも事故について知らない人は、summaryを読むと良い。
HWY18MH010-prelim,NTSB

Wikipediaもまとまっていて良い。
Death of Elaine Herzberg - Wikipedia

事故内容を簡単に説明する。
2018年3月18日の午後9時58分、米国アリゾナ州テンペの道路を自転車を引いて横断していた歩行者と、Uberの自動運転プロトタイプ車が衝突し、歩行者はその後死亡しました。車は自律モードで走行しており、自動運転車による初めての歩行者死亡事故、という扱いになっている。

Preliminary Report Highway : HWY18MH010,NTSB,2019 - Figure 1 から引用
Preliminary Report Highway : HWY18MH010,NTSB,2019 - Figure 1 から引用
(左)北行きのミルアベニューでの衝突の場所。歩行者の経路をオレンジで、Uberテスト車両の経路を緑色で示しています。(右)Uberテスト車両のクラッシュ後のビュー。右前側の損傷を示しています。

道が暗すぎるとか、ドライバーが衝突時に動画サイトを見てたとかで、色々言われていたが、結果的には自動運転の制御がかなりイケていなかった。というのが今回の報告でわかったことだろう。
実際、衝突の5.6秒前には歩行者の存在をシステムが認識していたにも関わらず、殆ど減速することなく衝突に至っている。ベース車になっている2017 Volvo XC90のプリクラッシュセーフティが働いていれば、事故もっと軽いものになっていただろうと言うボルボの意見も頷ける内容だ。そもそも、横断歩行付近以外では歩行者を分類できなかったこと、分類が自転車やその他でふらつき経路予測がその都度リセットされていたこと、これによって衝突の判断が遅れたこと、などを考えると、もっと大きな事故がいつ起きていてもおかしくない状況だっただろうと思う。

まあ、それはそれとして、自動運転車というのはこれまでの自動車とは根本的に違うのだな、と改めて実感した。今回の事故は技術的な問題で済むかもしれないが、運転者が自動化を過信していたことは、自動運転車としては大きな課題だろう。

これまでの車は運転手が主となって操作していたが、自動運転車は機械が主である。この転換は、単なる技術的な問題ではなく、人を含めた車というシステム、ヒューマン・マシン・インターフェイスの見直しが必要なのではないか、と今更ながら思ったのである。
(ここで自動運転車とは、半自動運転Lv.3-4について述べている。完全自動運転Lv.5では人の介入の余地がないため。)

航空機の自動化が進められたときも、「どう自動化すべきか?」というのは課題であった。その結論として、人間中心の設計(Human-centered design)が必要なのだと叫ばれて久しい。

Billings,C.E:Human-Centered Aviation Automation: A Concept adn Guildlines,NASA TM-110381,1996

人間中心となる自動化をすすめるにあたり、NASAが考えた「自動化の原則」と言うものがある。

「自動化の原則」(NASA.1988)

  • してはならないこと(Should not)
    • 作業者が特有のスキル、生甲斐を感じている仕事の自動化
    • 非常に複雑であるとか、理解困難な仕事の自動化
    • 作業現場での覚醒水準が低下するような自動化
    • 自動化が不具合のとき、作業者が解決不可能な自動化
  • すべきこと(Should)
    • 作業者の作業環境が豊かになる自動化
    • 作業現場の覚醒度が上昇する自動化
    • 作業者のスキルを補足し、完全なものにする自動化
    • 自動化の選択、デザインの出発時点からの現場作業者を含めた検討

参考:日本財団図書館(電子図書館) ヒューマンファクター概念に基づく海難・危険情報の調査活用等に関する調査研究 中間報告書 - 2.2 ヒューマンファクター概念を導入した事故防止の実例と教訓

これを見ると、今の自動運転車の自動化のデザインがあるべき姿なのか、については一考すべきと思う。
結局の所、システムに人を組み込んだとき、人の役割とは自動化における設計でカバーできなかったタスクを人間に任せることになる。それは大抵、複雑で困難なタスクになる。そのタスクが人に渡されたとき、重大な事故を引き起こす前に、人に処理できるようにしておけるようデザインしておかなければならない。これが、今の自動運転車にできているか、またそうしようとしているかは、よく見えてこないように思う。

なんてことを先週末考えていて、その話を上司にしたら、「いや、半自動運転車(Lv.3-4)なんて作っちゃダメなんじゃないの?危なくない?」と言われた。まあ、一理ある。運転支援(Lv.2)に収めるか、完全自動運転(Lv.5)にしてしまった方が話は楽だ。だが、技術ができたらやっちゃいたくなるのが人間だし、それをいうなら車という存在そのものが結構な危険物だ。これほど巨大で重くてエネルギーを持った物体が、人のすぐ隣をビュンビュン走っているのが異常なのだ。こんなリスクを抱えた身近な機械は車以外では殆ど存在しないだろう。モータリゼーションが進み交通戦争が激化した時、日本でも交通事故死亡者数が年間1万5千人もいた。現在は年間3500人と大分減ったが、今でも世界では年間130万人が亡くなっている。にも関わらず、相も変わらず、僕らは自動車は手放せないし、手放せなかった。一度発展した技術はどんなに危険だろうと利が上回ればその代替手段が現れない限りは不可逆なのだ。そうした世界の中で半自動運転車の存在は恐らく利が上回り、その存在は認められる事になるのだろう。ていうか、半自動運転車でも普及すれば、事故件数自体は減る可能性のほうが大きいのでwin-winじゃん、って話もある。(功利主義~)だが、トータルの事故が減るからと言って、自動運転車だからこそ発生した事故があっていい理由にはならないだろう。そう考えた時、インターフェイスについても焦点が当たることはあるな、というお話でした。


参考文献

Vehicle Automation Report - HWY18MH010,NTSB,2019

死亡事故を起こしたUberの自律走行車は、「車道を渡る歩行者」を想定していなかった:調査報告から明らかに|WIRED.jp

HWY18MH010,NTSB

HWY18MH010-prelim,NTSB

Death of Elaine Herzberg - Wikipedia

Billings,C.E:Human-Centered Aviation Automation: A Concept adn Guildlines,NASA TM-110381,1996

日本財団図書館(電子図書館) ヒューマンファクター概念に基づく海難・危険情報の調査活用等に関する調査研究 中間報告書

舶用機器におけるヒューマン・エレメントに関する研究動向調査,社会法人日本舶用工業会,2007

公共交通に係るヒューマンエラー事故防止対策検討委員会 最終とりまとめ,国土交通省,2006

西田,原田:自動化とパイロット

稲垣 敏之:計測と制御 第32巻 第3号 pp.181-186,誰のための自動化?,1993年3月

芳賀繁:安全技術では事故を減らせない-リスク補償行動とホメオスタシス理論-,2009

交通戦争 - Wikipedia

モータリゼーション - Wikipedia

年末企画 “ナニカシイラの年賀状2020” やります。(4年ぶり3回目)

ほうっておくとだらだらと怠惰な日々を過ごしてしまう僕を師走にせっつく企画です。
下記のフォームを入力して送信すると、僕の描いたゆるいイラスト付きの年賀状が届くよ。
ほしい方はどうぞご参加下さい。

ナニカシイラの年賀状2020 応募フォーム

細かい内容は、フォームに記載があるので、必ず確認してから送信してね。

平成30年度の「国語に関する世論調査」の結果が公表された。

文化庁では,国語施策の参考とするため,平成7年度から毎年「国語に関する世論調査」を実施しています。この度,平成30年度に実施した結果がまとまりましたので,発表します。
平成30年度「国語に関する世論調査」の結果について | 文化庁

この「国語に関する世論調査」は、平成7年から毎年実施されている。概要だけだからだろうか、割とゆるい感じの内容で、毎年質問の傾向が変わる[1]上に、そんなに設問も多くない。話のネタにはなるが、リスト化されたデータがないので「使いにくいな」というのが個人的な印象だ。

まあ、それはそれとして「面白いな」と思ったのが、報道のされ方である。
(僕が最初に見たのはNHK NEWSだったが、産経と朝日も似たような報じ方であった。)

「砂をかむよう」5割以上が誤った意味で使用 文化庁調査 | NHKニュース
「憮然(ぶぜん)」は「腹を立てている様子」? 5割超が“誤用” 国語世論調査 - 産経ニュース
「憮然」「砂をかむ」など本来と違う使い方、広がる 国語世論調査:朝日新聞デジタル

何れも 「誤用されている」 と述べているが、調査概要には、これを断言できることは書かれていない

世論調査の設問は「どのような意味で用いているか?」ではなく、「どのような意味だと思うか?」である。調査でわかるのは、読み手の理解についてであって、書き手の用い方ではない。使用方法に対する理解はそのまま使用状況とイコールになるとは限らない。
読み手の5割が間違っているからと言って、書き手の5割が間違っているというのは、言い過ぎだろう。[2][3]

調査概要から言えるのは、下記の記事内容のようなものだろう。

「憮然」は腹を立てる?=6割誤解、「砂をかむ」も-国語世論調査・文化庁:時事ドットコム

"誤解"の調査であって"誤用"の調査ではない。
これに関して、先の3つの記事は、調査概要を “誤解” しているし “誤用” もしているのではないか?と思う。つまり 「"誤解"について"誤解"して、"誤用"として"誤用"してしまっている」 のではないか、と考えてしまったのが、僕的面白ポイントだったのである。[4]


報道のされ方はおいておいて、調査概要の問の設定にも疑問がある。
「憮然」「砂をかむよう」などの言葉を「どのような意味だと思っているか?」について、実際の問は「AとBのどちらの意味だと思うか?」に対して「A」「B」「AとBどちらも」「AでもBでもない」「わからない」の5択で答える形式になっている。

どちらの意味だと思うか?
憮然(ぶぜん)(例文:憮然として立ち去った)
(ア):失望してぼんやりとしている様子
(イ):腹を立てている様子
(ウ):(ア)と(イ)の両方
(エ):(ア),(イ)とは,全く別の意味
分からない

これ「わからない」人でも、(ア)か(イ)を選択するように誘導されないだろうか。「どちらか?」と問われ、AとBを提示されたら、実際には「わからない」でも"どちらか"を選んでしまうものではないだろうか。
経験的に考えても「憮然」「砂をかむよう」という言葉を使ったことがある人は少ないように思う[5]し、"誤解"以前に、そもそもその言葉を"知らない"人がそこそこいて、それがこの問い方によって"どちらか"に流れ、隠れてしまっていないか、と思う。答えはこの選択式でもよいが問は素直に「どのような意味だと思っているか?」でよかったのではないだろうか。それとも調査は面談形式で行われているため、実際の問い方は少し違ったりするのだろうか?まあ、それはそれで概要のまとめ方に疑問が出るので、なんとなくモヤモヤしてしまう。こういう調査の方法論について明るくないので、確信をもってツッコめないので、余計に。


  1. 国語に関する世論調査#各年度の調査概要 - Wikipedia ↩︎

  2. 書き手は読み手が遷移したものとするなら、将来的には同等になるかもしれないが。 ↩︎

  3. べしゃりでもなんでも、言葉を誰かに向けて出力する者を"書き手"としている。 ↩︎

  4. 見出しだけなら意図的かと思ったが、本文でも「どんな意味で使うかを聞きました」なんて言ってるし、多分普通に勘違いしてると思う。それも意図してやってるならevil~。 ↩︎

  5. 経験論だが、僕自身も使ったことが無いし、日常会話で聞いたこともない。本くらいでしか見かけない。 ↩︎

久しぶりに日記を書く。文章を書くたびに内容のクオリティを気にしすぎる癖がどうにも抜けない。そのせいで、まったく筆が進まない。日記くらい好きに描かせてほしい。これも性か・・・。

ともあれプリパラの話である。僕は今年に入ってからアニメ「プリパラ」に激ハマりし、日々プリパラのことを考える暮らしをしている。プリパラの何がそれほど魅力的なのか、という話は非常に重いテーマではあるが、端的に言えばあれが「神話」であるからである。所謂修飾表現としての"神"ではなく、本来の意味での"神"を描こうとしているのである。「主人公真中らぁらが神アイドルを目指す」というあらすじだけをみて安易に言っているわけではない。人類とは何か、神とは何か、人類にとっての神とは何か、これらを実に真摯に、かつ楽しく、描いている。台詞として言わせるのではなく、あの物語を経験すれば自然とそれがわかるつくりになっている。これは本当に凄いことだ。それは、僕が言葉で神がどうのと言えば、プリパラファンからは何いってんだコイツと言われるくらいに、それは自然に表現されている。しかも、楽しい。これもプリパラの大きな魅力のひとつだ。一見、というか見たまんまギャグアニメといって差し支えないアニメであるのに、掘れば掘るだけ中身が詰まっている。素晴らしいことである。そもそもの子供向けアニメであるという前提もあって、大枠の物語としては全く難しくない。「とりあえずライブしてなんか解決しちゃうんでしょ?」くらいの程度の理解でも十分に笑って楽しめるが、プリパラは重要なシーンでの手抜かりはなく、しっかりとしたロジックの元構成されている。制作者がそう言わなくても、僕はそう言う。

(ここまで話して全く具体的な話がないが、これから下でもそれほどしない。まとめようとすると非常に難しく・・・、というかそれが理由で日記を全然書けていなかったので、あえて書かない。)

何を言おうとしてたのかと言うと、アニメ「プリパラ」はすごいものだ。ということだ。みんな是非見てほしい。
なんて思いが高ぶり、最近は会社でプリパラの布教活動をしている。おかげで、3人位は見てくれるようになった。内1人は1st season(全38話)を完了している。良いことだ。

しかし、布教活動とは言い得て妙だ。プリパラの本質は宗教に近い。
というと、何か誤解を生みそうである。そういえば、こういうのも最近見た。

「なろう系ファンタジー世界において宗教の力が極端に弱い」!?神絵師の分析が深かった! - Togetter

これ、まとめのタイトルで"神"絵師という言葉を使ってるのは、何か比喩的な、或いはシニカルな表現なのだろうか?という疑問は脇に置くとして、現代日本人が宗教に弱い、というのは実感としては同意できる。宗教に対するイメージが乏しいため、僕が無邪気に「これしゅーきょーみたい!」なんて喜んでると悪い方向に勘違いされかねないくらいだ。だからこそ、プリパラが宗教じみているなどといえば、ファンにもそれ以外の方にもネガティブなレスポンスを受け取ることになりそうだ。布教に成功した相手も別に宗教観があるタイプの人間ではないので、僕が神を語ればドン引き間違いNothingである。プリパラの素晴らしさをより多くの人に知ってもらいたい、という一心で布教していたが、いざ踏み込んで解説しようとすると、折角本編を見るようになった相手まで引かせてしまう蓋然性があるのである。なんというジレンマ・・・これは読めなかった~!(東堂シオン並感)

というか、神がどうの以前にアニメの解説って一般的にどこまで理解があるものなのだろうか?

今日、こういう記事を見た。

料金高すぎ、集中力もたない… 「映画館離れ」した人たちの声 | マネーポストWEB

10分も集中力をもって映画を見れない、という話がでてくる。これ自体はn=1なので殊更どうこういうつもりはないが、似たような話は身の回りでも聞く。この10余年でアニメの視聴層が変容した事に伴って、アニメの見方自体も変わってたりするんじゃないか、と思っている。ちょっと前にアニメ好きの若者と話した時も、大好きな作品でも監督を知らないとか、時短のために2倍速で見てます、とか堂々と言ったり、いや、これもまたn=1だし、人の楽しみ方は千差万別、その在り方になにかいうつもりもないのだが、自分や同世代以上の友人とは大分ズレてるな、とは思ったのである。そういう世間の中で、物語の構成やロジックについて言及したとして、果たしてどれだけその作品の盛り上がりに貢献できるのだろうか。プリパラを見てくれた同僚に、構造的な激アツポイントを僕が説いたところで、そもそも構造で激アツになるという事自体が理解されない可能性があるのじゃないか。だとしたら、宗教云々の前に、僕のプリパラ語りたい願望は最初から満たせなかったのではないか。語らずに落ちていたのだ!

だったら、ここで語ればいいじゃん?とは僕も思うし、できればそうしたい。だが、どうにもネットで何か語るのが、こわい。間違っていたら、という恐怖もなくはないが、どちらかというと間違った言説が流布してしまう事がこわい。いくら拡散されても、拡散したのは僕じゃないし、関係ないよね??という太い神経が僕にはない。それが自分の好きなものであればあるほどである。いろいろな方に申し訳が立たない。不甲斐ない思いをしそうだ。いや、これも言い訳だろう。こんなインターネットの場末が何を間違っても広まることはないし、更に話題がプリパラとなれば、可能性は0に等しい。結局、叩かれるのがこわくて何も言えないだけなんだと思う。批判自体は甘んじて受ける。というかむしろくればうれしいのだが、最近は本当にどうしようもない言葉でざくざく刺したいだけのリアクションをみかける機会が多く、それに僕の精神が耐えられそうにない。こわい。特に、実際に間違っているところを傷口を広げるように刺してくる言葉がこわい。苦手だ。それに耐えうるように、できるだけ曖昧な表現を排除して、データを揃えて、堅牢な言論にしよう!とすると、とてつもなく労力がかかる。僕にはその体力がない。(ぷしゅ~)何か言うと、何かこわいことがおきそう、だから、こわいことが起きないようにしようとするのだけど、それがすごく大変で、結局何も言えない。という坩堝に落ちている。なんなんだこれは!

あーもう、暗い話はやめやめ!今はプリパラの話でしょ。といいつつ全部プリパラに関わる自分語りの"諸々"なので、別に筋は外れてないぞ。というか、初っ端に戻ったのだ。ふふ。

そろそろ収拾がつかなくなったので、僕が描いたアロマゲドンの絵を貼って、おしモアイ!です。
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今日見た夢の話。割と面白かったのでメモ。[1]
一応注意、主人公≠僕です。[2]
見たまま書いてるので、構成の無駄は勘弁してください。


内容

私はこれまでメーカーで開発業務をしていたのだが、これをやめ、秋からアパレル関係の仕事へと転職した。
服飾や衣服に関して、然程興味があったわけではない。同じ業界にずっといた事で感じていた知識や経験の閉塞感から逃れるために、全く違う仕事をしてみたかったのだ。そして、転職後、望んだ通りの「全く違う仕事だ」ということによって、ものすごく苦しい思いをすることとなった。同じ社会なのだから、流用できる知識もそれなりにあるだろうと考えていたのだが、甘かった。どうやら、業界と業務内容が違うと常識レベルで異なるらしい。いまの仕事では「当たり前」「暗黙の了解」とされていることが全く身に覚えがないのだ。そのせいで、失敗を何度も繰り返すこととなってしまった。おかげで、早速、同僚や上司からは無能のレッテルを遠慮なく貼り付けられることとなった。

職場で煙たがれるようになった私だが、それでも優しくしてくる人が一人だけいた。
彼女は仕事で直接絡む機会は少ないのだが、会う度に私を励ましてくれるのだ。さして関わりのないのに、なぜこうも積極的なのかわからなかった。誰に対してもそうなのかと思えば、どうやら私に対してだけの様だ。正直、私は怪訝に思っていた。彼女は自分に惚れているのだ、と思えるほど、これまでの人生は気楽ものではなかったし、ましてや、この会社での評判は地の底だ。何か裏があるのでは、と疑うのは当然のことだろう。

そんな関係がしばらく続いていたのだが、ある日、私は意を決して彼女の真意を聞いてみようと思った。
「今日の夕方、あそこで待ち合わせましょう。聞きたいことがあるのです。」「はい。待っています。」
だが、そんな日に限って私はまた仕事で失敗してしまった。取引先と交わした契約に不備があったのだ。これを挽回するため、必死に動いた。なんとか落ち着く頃には、彼女との約束の時間を過ぎていた。これからでも急いで待ち合わせ場所にいかなくてはならない。そう思い、その場所へ向かおうとするのだが、事故や揉め事に巻き込まれてどうにもたどり着けない。仕事の失敗は良い、所詮は労働だと思えば我慢できた。だが、これは"私"の失敗だ。これまで蓄積した失敗の苦しみが、個人の小さな約束一つ守れないことにより堰を切ったように押し寄せた。私は待ち合わせすらできない、とんでもない愚図だ!歯を食いしばりながら、涙をこらえ、待ち合わせ場所に向かい走り続けた。

ようやくたどり着いた頃には、もう日はとっくに落ち、終電も近い頃合いであった。
しかし、閑散とした寒空の下、彼女は、まだ、そこにいたのだ。私を、待っていてくれたのだ。
情けないやら申し訳ないやら、悔しさが滲んた顔で私は頭を下げながら、彼女に声をかけた。
「申し訳ない!弁解の余地もない。君を待たせて、悪かった!」
何を言い繕っても私が悪いのは自明だ。もしや、彼女は私の面を引っ叩くために待ち続けたのでは無いだろうか。
そう思っていると、彼女は言った。
「大丈夫ですよ。」
その声につられ、ハッと顔をあげると、私の目に彼女の顔が、飛び込んできた。
美しかった。ただただ、美しかった。
それは微笑であった。全てを受け入れ、受け止めてくれる微笑であった。
「大丈夫。」
彼女はまたそういうと、しょぼくれた私を抱擁してくれたのだ。ああ!もう、どうでも、よい!彼女の意志も、私がどんな人間であろうと、どうでもよい!私は、彼女に、惚れてしまったのだから!もうそんな事は関係ないのだ!彼女に何を聞きたかったのかも忘れて、私は彼女を抱きしめ、言った。
「私と、付き合って下さい。」「ええ、喜んで。」
こうして、私は彼女と付き合うこととなった。

それからと言うもの、私の調子はどんどん良くなっていった。仕事の失敗も減った。これまでの失敗は結局の所その業界のイロハを知らなかっただけで、知ってしまえばどうということもなかったということだ。業務成績も上がり、職場で白い目で見られることもなくなった。ここまで続けられたのも、彼女の支えがあったからだろう。本当に感謝している。しかし、気がかりなのは、私の調子が良くなるにつれて、彼女が微笑むことも少なくなっていったことだ。何か、心配事でもあるのだろうか。
君の願うことなら、出来るだけ叶えてあげたい、そう告げると、彼女は言った。

「もっと、ダメでも、大丈夫だよ?」

あの時と同じ彼女の微笑みが、私の目に写った、ただ、彼女の瞳に映る私の表情は、苦虫を噛んだようだった。


解説と感想

当初の疑惑、「彼女の思惑」とは何であったか、というのを最後に主人公は悟ってしまった。つまり、彼女は、相手がダメであればあるほど、それを全て受け入れるという行為に快感を覚える性癖だったのである。自分を苦しみから解放してくれた聖母は、自分が苦しむことを望んでいたのだ(彼女的には苦しむことを望んでいるのではなく、ダメ野郎であることを望んでいるわけだが)。しかし、主人公がそれで救われたのも事実で、彼女が悪意なく、むしろその純粋性に惹かれてしまっているのだから困ったものだ。惚れた微笑みも、単に興奮でニヤついてただけってのも中々どうしたものか。ドラマティックに告白したのは良かったが、先に関係の本質を見据えておかないと、あとが怖いな、と思いました。


  1. 僕は夢を見るときは割とガッツリ設定込みの夢を見る。頻度はそれほど多くはない。 ↩︎

  2. 夢を見ている時、一人称視点だし、感情移入もしているが、主人公自体は僕ではない。人種、性別、人格、性癖、何れもバラバラだ。今回は、人となりが自分に近かったので、起きた後も感情を少し引きずった。 ↩︎

「電気が止まったら死ぬ?人はそれなりに対応します」と平和ボケした放言に各所からツッコミの嵐 - Togetter

上記まとめを見た。内容自体は、まあ、どうしようもないようなものなので読まなくて良い。
要約すると、「ホルムズ海峡が封鎖されて、石油がなくなっても電気が止まるだけで大したことないよね。
」「いや、電気大事だよ!命にかかわるよ!」みたいな話である。このやり取り自体には然程興味はない。

それより僕が疑問に思ったのは、何れの意見にしろホルムズ海峡が封鎖された場合に、日本国内の電力供給がままならなくなるという事が前提として語られていることだ。これは本当だろうか?資源エネルギー庁の各資料を元に考えてみたい。

中東地域から輸入している資源とは何か

まずは、中東地域からの一次エネルギー資源の輸入が停止した場合、なにが供給されなくなるのか確認する。
下記の図から、中東地域への資源の依存は、原油で約9割、LNG(天然ガス)が約2割、と言ったところだ。ホルムズ海峡の封鎖により、これらを失うものとする。

日本の化石燃料輸入先(2018年) 出典:貿易統計

日本の化石燃料輸入先(2018年) 出典:貿易統計
引用元:日本はどのような国から資源を輸入していますか?|日本のエネルギー2018|資源エネルギー庁

中東地域からの資源供給停止でどれだけの電力が失われるのか

次に国内の電源構成を見る。中東地域から輸入される資源は石油、LNGであるから、それぞれ石油火力発電、LNG火力発電に供給されるものとする。石油火力は電力量の約1割、LNG火力は約4割を占める。ここでは単純に、資源供給が減った分だけ、その資源を使った発電量が減るものと考える。
そうすると、中東地域からの資源供給が途絶えた場合、国内の電力量の内2割弱(17%程)を失うことになる。
(石油:0.1×0.9=0.09、LNG:0.4×0.2=0.08、計:0.09+0.08=0.17[%])

発受電電力量の推移 出典:資源エネルギー庁「電源開発の概要」「電力供給計画の概要」

発受電電力量の推移 出典:資源エネルギー庁「電源開発の概要」「電力供給計画の概要」
引用元 : 第2部 第1章 第4節 二次エネルギーの動向 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁

電気は止まるのか

当然だが、いきなり発電量が2割なくなれば電力供給は止まる。電力の供給と需要は常にバランスしているからだ。考えなければならないのは、この失うであろう2割の発電量を何らかの方法でカバー出来るのかどうかである。もし、カバーすることが可能ならば電気は止まらないし、不可なら止まるだろう。

まずは、国内の活動のみでカバー可能かを考える。現状のエネルギー資源と発電設備で2割を補うことができるだろうか。あまり深く考えなければ、可能であると思う。

容易に思いつくのは、原子力発電を利用することだ。前項の図を見て分かる通り、2011年以降その殆どが稼働停止している原子力発電は、元々国内の2割以上の発電量を担っていた。これを再稼働させることで、現状でも発電量の2割を補填することは可能だ。(廃炉予定のものを除いて、現在の国内の原子力発電設備容量は約3700kWであるため、フル稼働させれば年間3200億kWh。年間の総電力量が10000億kWhほどなので、2割カバーはなんとか可能だと思われる。核燃料備蓄も潜在的には2年分はあるらしい。)

参考:日本の原子力発電所の状況|資源エネルギー庁
参考:原子燃料の潜在的備蓄効果-2016年データを用いた推計結果-

ただ、「あまり深く考えなければ」と言ったとおり、原子力発電は非常にセンシティブな政治的問題を孕んでいるため、実現できるかは不明だ。(まあ、余程に切羽詰まればやるだろうが)

あとは、国外からの資源輸入によりカバーすることも考える。中東から輸入していた分の資源を他の国から輸入すれば良いのだが、量が量だけにすぐに契約するのは難しいだろう。石油にしろLNGにしろ、世界的な中東への依存度は依然高い。中東地域からの資源輸入が途絶えた場合、資源の奪い合いに対応できるかが肝であると思われる。ただし、最近は米国がシェール革命により世界的な資源輸出国になったため、しばらくすればバランスは取れるかも知れない。(中東と比べると圧倒的に埋蔵量が心もとないのでどう転ぶかは全くわからないが)

何れにしろ、国外に頼るのであれば、国内備蓄が尽きる前に対応しなければならない。現在の国内石油備蓄は約半年分で保たれているため、これがタイムリミットと言える。

参考:集計結果又は推計結果|石油備蓄の現況|平成31年/令和元年 6月分|資源エネルギー庁

まとめると、原子力発電所を再稼働し石油消費量を抑制しつつ、新たな石油輸入先を確保することで、電気が止まること自体は食い止められるだろう。

電気が止まる・・・そんなことより

これまで「ホルムズ海峡が封鎖されることで中東からの石油輸入が途絶えると、日本の電気は止まるのか」を考えてきたのだが、そんなことより明らかに重大な問題が在る。下記は、国内のエネルギー資源がどのように分配されるかのフロー図である。

我が国のエネルギーバランス・フロー概要(2016年度)出典:資源エネルギー庁「総合エネルギー統計」

我が国のエネルギーバランス・フロー概要(2016年度)出典:資源エネルギー庁「総合エネルギー統計」
参考:第2部 第1章 第1節 エネルギー需給の概要 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁

これを見て分かる通り、石油の使用割合で言えば発電に用いられるものは少ない。最も大きな使用用途は、精製用原油であり、自動車、飛行機など運輸に使われる燃料にある。つまり、石油の輸入量が大幅に減った場合、打撃を食らうのは電気ではなく、物流である。

当然だが、自動車や飛行機はおいそれと燃料を変えることはできないため、石油燃料が絶たれれば物流を担う手段が残されていない。例え全てを電気自動車等に置き換えたとしても、次はその分発電量を増やさなければならず、それには発電所を倍増しなければ追いつかないだろうし、投入するエネルギーも倍増する。(どんぶり勘定)

つまり、石油が絶たれた場合、物流に関しては全くと言っていいほど取れる手がない

おわり

結局の所、電気が止まるにしろ物流が止まるにしろ、この国の一次エネルギー資源の国外依存[1]が大きいのは根本的な問題である。それはホルムズ海峡は封鎖されようがされまいが、潜在的に重大なリスクであることは疑いようもないし、そんなことは一般常識的にみんな把握していることだろう。この解決には国外依存そのものを最小限にすべきであって、逆に言えばエネルギー自給を如何に拡大するかが課題である。それは再生可能エネルギーや代替エネルギー(メタンハイドレートなど)の道を模索していくしかないのだろう。[2]それについては国がどう考えているかは、資源エネルギー庁のエネルギー白書2019「第3部  2018(平成30)年度においてエネルギー需給に関して講じた施策の状況」に書かれているので、興味がある方は一読しておいても良いだろう。

これが最適解なのかは、僕が浅学なため図りきれないが。


参考資料

エネルギー白書|資源エネルギーについて|資源エネルギー庁
統計・各種データ|資源エネルギー庁
エレクトリカル・ジャパン - 発電所マップと夜景マップから考える日本の電力問題 | 東日本大震災アーカイブ - 国立情報学研究所
石油取引の基礎知識 - Tokyo Commodity Exchange


  1. 個人的には核融合炉の実用化に期待したいところだが・・・、いや、ホントは相転移エンジンとか対消滅エンジンとか縮退炉とかがイイ! ↩︎

  2. 国内供給の9割弱は国外依存の化石燃料である。 1.どのくらいエネルギーを自給できていますか? | 日本のエネルギー2018 「エネルギーの今を知る10の質問」 |広報パンフレット|資源エネルギー庁 ↩︎

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