「ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている」批評家・東浩紀が振り返る ネットコミュニティの10年 (1/2)

上記記事、共感するところが多い。恐らく、SNS登場以前からネットに接続している人間には似たような想いが在るのではないだろうか。

何が世の中を「悪くしていった」のだろう?[1]要因はいくつかあるが、とりえあず今回はその内2つについて話す。
(時間、金、家族、神についても話したいが、それはいずれ)

人は増え、暴虐を生み、大洪水となった

インターネットの一般化により、世界の情報の流通量はその前の100年とは比べるもなく、膨大なものとなった。それでも、20年前は良かった。ネットの情報の流れに曝される者は、自らの選択によりネットに繋がっていた。その行為そのものが自由の資格であった。おかしくなったのはスマホとSNSの登場からだ。[2]人々は、強制的にネットに繋がるはめになった。希望も覚悟もなく、ただ慣習によって。それに追い打ちをかけるように、いや、その強制の結果、ネット上での情報発信はより個人的で雑多で有象無象で膨大になっていった。[3]大量の情報を処理できる者はそれでも耐えることが出来た。だが、そうでない者はこの状態に苦しむことになった。情報の取捨選択、熟慮熟考が出来る者はほんの一部に過ぎず、情報の流れに逆らえない者は、より直感的で反射的で短絡的にならざるを得ないのである。しかし、それは緊張と焦燥の中にある。人は、同時に2人に話しかければ混乱するし、さらにその倍、倍の倍、倍の倍の倍、が話しかけてきたなら、残るのは自分の悲鳴だけだ。そして悲鳴は次の誰かの悲鳴となり、大合唱。情報過多は熱暴走を起こし、人々は自家中毒に陥っている。

大洪水は、地を流した

多くの人間のネットへの流入は、発信される情報の平均的品質を低下させた。しかし、それだけならば、ゾーニングを行うことで混乱は十分に回避できたはずだ。問題なのは、「場」を失くなってしまったことにある。場があれば「話し合い」が可能だった。それが不可になったのは、Twitterを代表する形式のSNSの台頭にある。「話し合い」が出来ないのは、そもそも議論に必要な前提のコンセンサスが得られていないことにある。議題そのものや含まれる言葉の文脈が全く無視されている状況に問題があるのだ。言葉は言葉を知っている者同士でしか扱えない符合だ。例えば、僕は上で「熱暴走」という言葉を使った。これは電気回路の用語だと知っていれば「正のフィードバックにより制御不能に陥っている状態」にあることを端的に表している事がわかる。[4]しかし、「熱暴走」の意味を知らない者は「熱くなって暴れてる」くらいに解釈してしまう。重要なのは「フィードバック」していることであって、「熱い」でない。このような履き違いが、場の無さにより生み出されている。場というのは、その場にいるだけで人々に、ある合意を形成する。日本にいるから「国民」と言った時は普通「日本国民」を指すし、全く相手のバックボーンを知らなくても、目の前にいるというだけで「天気」の話題を振る事ができるのだ。それなのに、Twitterには、これがない。[5]だからこそ、不幸な炎上も生む。例えば、「今日は雨が振るらしい!みんな傘忘れるなよ~」というTweetに「私の生活圏では天気予報は晴れです。デマはやめてください」「みんな、って主語でかすぎ。勝手に含めるな」「傘を持っていくか行かないかは私の自由であって、あなたに言われる筋合いはないと思います。」などと、Replyが飛んできたりと言った風に。これら、別にそれぞれの意見が間違っている訳ではない。ただ、場があったなら、これが地域掲示板やクラスメイトのグループチャットでの発言であったなら、こんなすれ違い、摩擦は起きなかったはずだ。[6]要は、開かれすぎなのだ。知識人であれば、それでも文脈を読もうとするが、多くの人間はそうではない。「場」の空気を読むほうが得意なのに、「場」がないために、それが出来ない。地に足がつかない。それでも、そんなものに、人々は繋がざるを得ない。

未だ方舟はなく、契約はなされず

インターネットは、大量生産大量消費、即生産即消費の波に飲まれ、多くの文化を失った。そして、その波を構成する人々は、自身も自身の波に今も飲まれ続け、苦しんでいる。溺れた人間は全く人間らしさを発揮できず、ただただ動物的だ。中には意識的に、波から脱しようとする者もいる。だが、それはほんの一部に過ぎず、そんな一部にとっても、この大波は決して無視できるモノではない。誰にとっても、世界はどうしようもなく不可逆だ。

「僕らのインターネット」は、もう失くなってしまった。世の中は確かに悪くなっているかも知れない。それでも、僕はそれほど悲観的ではない。新しい希望は見いだせることを、僕はまだ信じている。それが何かは未だわからないが・・・。なに、まだたったの10年だ。即時性を憂いている身で、たかだか10年ぽっちで見切りをつけるのも、道理が通らないではないか。そうだろう?


  1. 「世の中を悪くした」という言葉尻だけ捉えると否定も多いだろうが、「世の中」が「文明」を指すのか、「文化」を指すのかは前提として一考すべきであろう。例えば、Unicodeの普及で、文字情報の取扱いは便利になったが、その反面で文字文化の多様性は失われた。Unicodeに載らなかった文字は使えないし、使われなくなった。多くの文字は消えていった。 ↩︎

  2. それ以前に携帯電話が十分に普及していたからこその潮流ではある。但し、電話とスマホは似て非なるものだった。 ↩︎

  3. 図書館での語らいは、いつの間にかダンスホールの馬鹿騒ぎになってしまった。 ↩︎

  4. トランジスタは、温度が上昇すると電気抵抗が小さくなる特性がある。つまり、温度が上がるほど電流が流れる。そして、電流が流れるほど、発熱量が増え、素子の温度は上昇していく。無限ループって怖くね?(わかりやすいようにかなり雑に説明している。当然だが、普通は発熱してもすぐに冷却されるので、熱暴走には至らない。) ↩︎

  5. 人間関係のような不可視なモノは、場にならない。どこで、何を言っているのか、が必要。 ↩︎

  6. Twitterはせめて、個々のTweetに「Reply可否」「RT可否」「Like可否」を設定出来るようにしてほしい。これだけで、不幸な炎上の大部分は防げないだろうか。まあ、Twitter上の炎上で静かに利を得ているのはTwitter自身なので、自分の首を締めるようなことはし難いだろうな・・・。 ↩︎

「不登校は不幸じゃない」10歳のユーチューバー 沖縄から世界に発信「ハイサイまいど!」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

そろそろ波も落ち着いた頃なので言及したい。と、言っても、彼の行動や表現の是非や彼の親がどうのという話はしない。多くの人にとっては細かいことで、どうでも良いと思う事についてだ。要は、僕の感想だ。

上記記事内おいて気になった箇所を以下に引用する。[1]

担任の言うことを聞く同級生もロボットに見え「俺までロボットになってしまう」と、学校に通わないことを決意した。

僕がここに違和感を覚えたのは、"ロボット"の解釈についてである。ここで言う"ロボット"とは産業用ロボットのような労働力としてのロボットを指しているだろう。マスターの命令に忠実なスレイブとしてのロボットだ。これの何がおかしいのかと言うと・・・、僕には子供の頃に、こういう"ロボット"の解釈がなかったからだ。

僕にとって、ロボットというのは「人類の叡智の結晶」「科学と進歩の体現者」「人を超えたモノ」であって、「人」の下にくるという印象が全くなかったのだ。[2]何なら僕は、ロボットになりたかった。いや、今もなりたい。人間にはおおよそ処理できない計算結果を瞬時に叩き出し、人が到底持てない重量物を軽々と担ぎ上げ、損傷しても部品交換ですぐに直り、病気にもならず半永久的に生きることが出来るのである。子供にとって、ロボットとはそういうカッコいい憧れの存在だと、思っていたのだ。しかし、件の彼の発言ではロボットは単なる労働奴隷に成り下がっている。[3]現代の子供にとってロボットとはそういう存在なのか、はたまた大人がロボットとはそういう存在だと教えたのか定かではない。ただ、何れにしろ子どもたちがロボットをそういうものだと思ってしまっているなら、実に寂しい気持ちになるな、というのが、この記事を読んだときの、僕の想いであったのだ。

昨今、機械学習の発展からAIも少し進歩したというのだから、むしろ、今の子供達にとってこそ、ロボットについて馳せた想いが現実になる可能性が高いだろうに。いや、それは僕の願望がすぎるか。[4](終)


  1. 同様の内容は、彼のYouTubeチャンネル内の動画にて繰り返し発言されている。 ↩︎

  2. ロボットの印象は、ロボットについて何で知ったかによると思うが、やはり物語の影響が大きいと思われる。例えば、「鉄腕アトム」「ショート・サーキット」「ドラえもん」「キテレツ大百科」「ターミネーター」「アンドリューNDR114」など数えればキリがない。僕の中でロボットと言えばSF的=自律型であり、「マジンガーZ」「ガンダム」なんかはパワードスーツの延長だ。あと、これは余談だが、僕は昔から人間よりロボット達の物語の方に共感しやすい。自律したロボットたちは、「自己とはなにか」「世界とはなにか」「死とはなにか」について必死に考える。理知的で、純真無垢で、真正面から苦悩している。怠惰で、愚かで、嘘つきで、都合のいい、人間とは大違いである。まったく、愛おしい存在で、僕のようである。 ↩︎

  3. ロボットに詳しい人からすると、"ロボット"という言葉を創出したR.U.R.だって、ロボットはrobota(チェコ語)であり、労働代替者の意味だったじゃないか!とツッコミを受けそうである。しかし、R.U.Rだって最後は人が忘れた"生命"をロボットが取り戻すのだから、やはり超人的であると思う。(読んだことがない人は面白いので是非読んで下さい。青空文庫で読めます。↩︎

  4. シンギュラリティがどうのと大人たちが騒いでるのを見ると、僕が言う憧れは未だ大人たちの中にはあるのだなあ、とは思う。ただ、まあ、大人ならもうちょっと情報を精査してリアクションしても良いのではないか、と思いたくなる事柄も散見されるが・・・。 ↩︎

日々、社会で起きているニュースを見ていると思うことがある。
「この国はどうなっていくのか」「人々をより良い方向に導くにはどうすればよいか」「この国が長く解決しなかった問題はどう解決スべきか」など、そういうようなことを、ふと、思ってしまうのである。

そして、次の瞬間に、自己に対する呆れとともに、こう思うのである。
「なんで僕がこんなこと考えているんだ?」

僕自身に社会をどうこうする気など全く無い。もっと言えば他人をどうこうする気すら無い。それは単に僕が個人主義者であり自由主義者であることもあるが、本質的には他人に興味がそれほどないからである。[1]いや、抽象的、或いは全体的な"他人"には興味がある。それは、世界の一部としての"他人"であって、決して、一個人を正面から捉えた"愛"あるものではない。僕は、そういう人格であるからして、冒頭のような"思いつき"をするは、そう考えるほうが「僕が面白いから」に他ならない。

つまりはこうだ。ある社会的な問題を目の当たりにしたとき、やはり僕はそれを物語として捉えており、どう展開したら面白い(エキサイティングで、アクロバティックで、スマート)かを考えてしまっているのである。それは、読者の視点であるし、神の視点[2]だと言い換えても良いかもしれない。如何せん問題の当事者意識というものは、凡そない。無責任なものである。

しかし、そう認識していても、僕は社会的なニュースを見て相変わらず"憂いて"しまうのである。この現象、或いは傾向を、僕は皮肉を込めて 「英雄贋望」 と呼んでいる。仮に僕が「英雄」であれば、この憂いも実のあるものになるだろうし、他人を巻き込む気概さえあれば「英雄志向」くらいにはなったかも知れないが、伽藍堂の憂いしかないのであれば「英雄願望」ですらない、と。[3]

いや、もしかしたらもっと質の悪いものかも知れない。なぜならば、僕は"憂う"ことも含めて、その問題を楽しんでしまっているからだ。英雄という存在を考えると、それは"敵"の存在を前提としなければ存在し得ない。それに自覚的な英雄もいるだろうが・・・、少なくとも"敵"の存在をありがたがってる英雄は、英雄とは言えないし、言いたくないだろう。


  1. 実際ところ、「他人に興味を持たない」という性癖は、子供の頃から「他人に依存してはいけない」と考えざるを得ない事情(大した事ではない)があったが故である。また「他人に興味がない」というのは、その強度が0であるということではなく、リミッタの閾値が他人より低いところにある、という意味である。端的に言えば「広く浅く」的な有り様だ。これの大きな問題は、誰かを好きになっても、本当のところで愛することが出来ない、という事なのだ。さみしみ。 ↩︎

  2. 神と言っても想像に易い陳腐な邪神か何かだろうが。 ↩︎

  3. 一応言っておくが、社会問題に対して意識が高い事自体を批判する気は全く無い。ただ、僕のように行動するわけでもなく、他人に自分の意見を漏らさず、一人で悶々としている輩は、その状況自体を自己が要求した結果でしかないことは認識しても良いかも知れない。片思いをしていて、そのことを誰にも言ってなかったのに、対象に恋人ができたら憤る、みたいな話じゃあないか。或いは単に自己保身のプライオリティが高いだけかも知れないが。 ↩︎

僕ら、ヒトというものは物語を喰らわずして生きていけない。また、物語を喰らわないものがあれば、それは凡そヒト的ではないとすら思う。僕が言う物語というのは、何もフィクションの話だけではない。現実に起きている話でも、自分と直接関係のないのなら物語であると言って良い。ひとつ抽象化してしまえば、そこのフィクションとリアルの境目は途端に曖昧になり、切り分けること自体がナンセンスであると言えるかも知れない。いずれにしろ、ヒトというものは物語を食らう。母の昔話、飲んだくれの武勇伝、友達の噂話、夫が語る上司の愚痴、教師の宣う社会問題、知識人の思想、テロリストの宗教論、深夜アニメの色恋沙汰、漫画雑誌の冒険譚、それら全ては等しく物語だ。物語とは「僕の話」ではない。だが、同時に「僕の話」にすることもできる。この「僕の話」ではないものを「僕の話」にすることこそ、物語を食うことであると、僕は考えている。そして、最初に述べたとおり、ヒトはこれを無意識に、本能的に行為する。しかも、それを止めることは意識しても困難を極める。まさに、食事や睡眠の如くある。
しかし、食事や睡眠と違い、物語を食うことはあまりにも無意識的に行えてしまうが故に、多くのヒトはそれを無自覚に行っているように思う。[1]

自分が食通であると名乗るのは烏滸がましいかもしれないが、僕は物語を"美味しく"食べることを生きることのモットーとしている。そんな僕としては、物語が無自覚にただただ消費されていく世界というのは何とも悲しく感じるのである。また、無自覚に物語を食う場合、どうにも表面だけを食い散らかしてしまう。僕だって偶には犬食いもしたくなるが、常にそうであるならば、それはヒトとは言えない。ヒトは己を律するという自由があるからこそヒトであるのであって、そうでないなら獣に堕ちるものだ。自己が今、物語を食う"者"であるか、それとも"獣"となっているのか、そのことは常に考えて生きたいものだと思う。


  1. 何事にも中庸というものが有るように、物語を食うことにも過不足やバランスがある。そのことに注意しないと、食事や睡眠の過不足やバランスが崩れたときのような諸問題を引き起こす。無自覚に物語を食うことはそのような危うさも孕んでいると思う。 ↩︎

2019年4月21日に発生したスリランカでの同時多発テロについて。
テロでは、イースター(復活祭)のタイミングで、教会や高級ホテルなどでキリスト教徒ターゲットに実行された。
テロの実行組織は、スリランカのイスラム過激派組織National Thowheed Jama’ath(NJT)[1]であるとされている。

基礎情報

スリランカは、その人口の内シンハラ人(74.9%)とタミル人(15.3%)が多くを占めている。
イギリスの植民地政策の影響から、この二民族間では対立があり、タミル人の武装組織タミル・イーラム解放トラとスリランカ政府とは30年近い内線状態にあった。また、シンハラ人には仏教徒、タミル人にはヒンドゥー教徒が多いことから、民族と宗教は不可分な形で対立していたようだ。内戦は2009年をもって終結したが、未だシンハラ人による少数派への弾圧など残滓がある状態にある。

スリランカ基礎データ | 外務省

疑問

今回のテロは、イスラム過激派からキリスト教への攻撃であるが、このベクトルが不可解である。
スリランカにおいてはイスラム教もキリスト教も人口の10%に満たない少数派である。過去には、シンハラ人(仏教徒)から、イスラム教への暴動などもあり、成り行きでイスラム教徒が矛を向けるとしたら、仏教徒が対象となるように思う。いくらか調べた限りでは、スリランカでキリスト教からイスラム教へ攻撃があったという情報は見当たらなかったため、やはり違和感がある。

憶測

このテロ自体はスリランカ自体で発生した動きではなく、外部からのエネルギーの注入があったのではないかと思う。それが、外部のイスラム過激派組織であるのか(外の)国家的な勢力なのかは不明だ。しかし、NTJ自体は2012年に設立した新しい組織であることや、規模の小さい(そもそも世界的に見ても名前が知られていない)ことから、今回のような同時多発テロを計画するには自組織だけでは力不足であると思う。計画には、それなりの専門家の知識が必要であろう。

これらはあくまで素人の憶測のため、疑問解消につながる明らかな情報がでてくるのが待たれる。


追記

と、思っていたらISから犯行声明がでたようだ。

Terrorists in Sri Lanka swore allegiance to Abu Bakr al-Baghdadi | FDD’s Long War Journal

動画は、スリランカのテロ容疑者とされるZahran HashimがAbu Bakr al-Baghdadi[2]に忠誠を誓うという内容になっている。

これで、少なくともイスラム過激派の国際ネットワークが関係していることは明らかになったように思う。ただ、そうだとしても、スリランカが対象になった理由は未だに釈然としない。中には、NZテロに対する報復であるとする見方があるが、リアクションとしては脈略の内容に感じる。

さらなる情報を待つ。


  1. National Thowheeth Jama’ath - ウィキペディア ↩︎

  2. ISILの指導者。自称カリフ。アブー・バクル・アル=バグダーディー - Wikipedia ↩︎

久しぶりに人に怒られた。その怒りは真っ当であり、僕が悪いものであった。
ただ思うのが、怒っている人と会話をするのはひどく精神がすり減るな、ということである。
(この一週間、他人を怒らせてしまったことが非常に心苦しく、何も手につかず、睡眠も覚束ない状態だった。)

今回、怒られ方で最も傷ついたのは対話拒否を突きつけられたことだ。
こうなると、もうこちらからはお手上げで、僕としてはしこりが残る結果にしかならなかった。
忘れるしか無いとは思っているのだが、他者からの拒絶とはコレほどに苦しいものだったか。

僕としては何ら悪意はなかった(通俗的な意味でも法律的な意味でも)し、今後こんなことはあってはいけないと思った。だからこそ、どういう行為がどういう影響をもたらしたのか明確にしておきたかったのだが、
「キミは悪いことをした。私は迷惑した。それだけだ。何がどう悪かったかなど、私はどうでも良い。」
と、言われてしまった。

かなしい。本当にかなしいことだ。

いや、こんなことは有り触れている事象ではあろう。ただ、僕は久しぶりに目の当たりにしてしまった。
そう考えると普段付き合っている友人や同僚に非常に恵まれていたし、みんな優しかったのだなと再認識できた。これは良かった。

そして改めて、自分の精神は非常に脆弱であることも分かった。どうも、人に嫌われることを極端に恐れているようだ。ああ、恐ろしい。嫌われるということはなんと暴力的なんだろうか。

いや、ちょっと待てよ。もしかして、これは彼なりの優しさだったのではないだろうか。
「悪いことをした」という事実は消えないのであるから、そこに対する追求はこれ以上行わないよ、という意思表示だったのではないだろうか。僕は物事がはっきりしない事の方が、後を引いてしまう質だが、彼は話をさっさと終わらせる事のほうが良いと考えたのでは。
そうなると、彼は僕が思っている以上に今回の件はどうでもいいと思っているのかも知れない。
むしろ、僕のほうが勝手に大ダメージを受けているだけなのかも知れない!
ただなあ、「キミのマナーやモラルの欠如が問題だ、常識のない奴だ。」みたいなことも言われたしなあ・・・。普通に怒ってるな。怒っていることは事実だが、矛は収めた事の意思表示ではあるか・・・。
確かに、彼が彼の最大限の力で持って対処しようと思えば、もっと面倒なことになってもおかしくなかったわけだし、憎しみや恨みまでは至っていない事を喜ぶべきか。
こんな事を言うと「お前は何をしたんだ・・・」と思われそうだが、僕としてはそこまで大したことでもなかった。だが、それは僕の認識であって、相手にとっては大したことであっのかも知れないし、それを確認したかったのだが、その前に会話が打ち切られてしまったからなあ・・・。

と、まあ、そんなことが頭の中でぐるぐると回ってもやもやが晴れないのである。
ああ、また今日もうまく寝れないんだろうなあ。

僕はもっと思いつきで文章を書くべきだ。これは前からずっと思っているのでが、どうしても外見を気にしてしまう。どうも数百文字書いた時点で「いや、これもっとまとめられるな・・・」と思い、キュッと圧縮すると数十文字くらいになる。そんな調子で書いてるとまた数百文字になると、またキュッとしたくなるのである。自分で書いていて、どんどん抽象化が進んでいき、こんな具体的なこと言ってもしょうがないし伝わらないか、と思ってしまう。今日から暫くは、バックスペースを禁じ手として文章を書いていこうと思う。もはや誰かに見せるためではなく、自分が文章を書くために練習。
それも、ほんとに"書くだけ"の練習としていこう。

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