英雄贋望
日々、社会で起きているニュースを見ていると思うことがある。
「この国はどうなっていくのか」「人々をより良い方向に導くにはどうすればよいか」「この国が長く解決しなかった問題はどう解決スべきか」など、そういうようなことを、ふと、思ってしまうのである。
そして、次の瞬間に、自己に対する呆れとともに、こう思うのである。
「なんで僕がこんなこと考えているんだ?」
僕自身に社会をどうこうする気など全く無い。もっと言えば他人をどうこうする気すら無い。それは単に僕が個人主義者であり自由主義者であることもあるが、本質的には他人に興味がそれほどないからである。^1いや、抽象的、或いは全体的な”他人”には興味がある。それは、世界の一部としての”他人”であって、決して、一個人を正面から捉えた”愛”あるものではない。僕は、そういう人格であるからして、冒頭のような”思いつき”をするは、そう考えるほうが「僕が面白いから」に他ならない。
つまりはこうだ。ある社会的な問題を目の当たりにしたとき、やはり僕はそれを物語として捉えており、どう展開したら面白い(エキサイティングで、アクロバティックで、スマート)かを考えてしまっているのである。それは、読者の視点であるし、神の視点^2だと言い換えても良いかもしれない。如何せん問題の当事者意識というものは、凡そない。無責任なものである。
しかし、そう認識していても、僕は社会的なニュースを見て相変わらず”憂いて”しまうのである。この現象、或いは傾向を、僕は皮肉を込めて 「英雄贋望」 と呼んでいる。仮に僕が「英雄」であれば、この憂いも実のあるものになるだろうし、他人を巻き込む気概さえあれば「英雄志向」くらいにはなったかも知れないが、伽藍堂の憂いしかないのであれば「英雄願望」ですらない、と。^3
いや、もしかしたらもっと質の悪いものかも知れない。なぜならば、僕は”憂う”ことも含めて、その問題を楽しんでしまっているからだ。英雄という存在を考えると、それは”敵”の存在を前提としなければ存在し得ない。それに自覚的な英雄もいるだろうが・・・、少なくとも”敵”の存在をありがたがってる英雄は、英雄とは言えないし、言いたくないだろう。