物語を食らうモノ

僕ら、ヒトというものは物語を喰らわずして生きていけない。また、物語を喰らわないものがあれば、それは凡そヒト的ではないとすら思う。僕が言う物語というのは、何もフィクションの話だけではない。現実に起きている話でも、自分と直接関係のないのなら物語であると言って良い。ひとつ抽象化してしまえば、そこのフィクションとリアルの境目は途端に曖昧になり、切り分けること自体がナンセンスであると言えるかも知れない。いずれにしろ、ヒトというものは物語を食らう。母の昔話、飲んだくれの武勇伝、友達の噂話、夫が語る上司の愚痴、教師の宣う社会問題、知識人の思想、テロリストの宗教論、深夜アニメの色恋沙汰、漫画雑誌の冒険譚、それら全ては等しく物語だ。物語とは「僕の話」ではない。だが、同時に「僕の話」にすることもできる。この「僕の話」ではないものを「僕の話」にすることこそ、物語を食うことであると、僕は考えている。そして、最初に述べたとおり、ヒトはこれを無意識に、本能的に行為する。しかも、それを止めることは意識しても困難を極める。まさに、食事や睡眠の如くある。
しかし、食事や睡眠と違い、物語を食うことはあまりにも無意識的に行えてしまうが故に、多くのヒトはそれを無自覚に行っているように思う。[1]

自分が食通であると名乗るのは烏滸がましいかもしれないが、僕は物語を"美味しく"食べることを生きることのモットーとしている。そんな僕としては、物語が無自覚にただただ消費されていく世界というのは何とも悲しく感じるのである。また、無自覚に物語を食う場合、どうにも表面だけを食い散らかしてしまう。僕だって偶には犬食いもしたくなるが、常にそうであるならば、それはヒトとは言えない。ヒトは己を律するという自由があるからこそヒトであるのであって、そうでないなら獣に堕ちるものだ。自己が今、物語を食う"者"であるか、それとも"獣"となっているのか、そのことは常に考えて生きたいものだと思う。


  1. 何事にも中庸というものが有るように、物語を食うことにも過不足やバランスがある。そのことに注意しないと、食事や睡眠の過不足やバランスが崩れたときのような諸問題を引き起こす。無自覚に物語を食うことはそのような危うさも孕んでいると思う。 ↩︎