ワニ所感

週末はワニやらプリチャンやらで大変だった。とりあえず、ワニについて書こう。

ここでいうワニとは言わずもがな「100日後に死ぬワニ」のことである。

僕としては1日目を見たときに「やられた!」と思ったし、同時にこの作品はこの時点で完成しているな、と思った。
僕はメメント・モリという言葉が好きだし、死の日常性や必然性をモチーフにした作品が好きだ。ただ、そういうものは一般受けはあまり良くない。死はこわいもの。しかし、ワニはそれをド直球に表現する気であるにも関わらず、多くの人に届いていた。すごい。僕はこれだけで割と満足した。逆に言えば、それから100日目においてまでも、評価はほぼ変わらず。よくやったな、という気持ちである。

味気ないので、ワニ周りで思ったことをいくつか述べる。

死に方

ワニの死に近づくにつれてワニがどう死ぬか?という予想が散見されたが、ワニが死ぬことは1日目に確定しており、死に方自体はそれほど重要ではないと考えていた。あえてあるとすれば、劇的ではなく、何気なく死ななければいけないと思っていた。なぜならば、これはありきたりな死の物語であるからだ。毎日死ぬ15万人の、100日の間に死んだ1500万人の1人の物語なのだ。この作品において、死をドラマティックにするのはただの欺瞞となる。人は偶然に生き、必然に死ぬ。生の矜持も、死の覚悟も、なく、ただあるとき死ぬ。そして、ワニは死ぬ瞬間もみせず、いつの間にか、呆気なく、死んだ。よかった。

なにぬかしてやがる

ワニまわりで僕が悲しかったのは、ここまでわかりやすく表現しても自己の死に対して無自覚を貫き通す図抜けたオプティミストたちだ。ワニは君たちだ。100日後に生きているのかもわからない、君たちだ。何ワニのほうが先に死ぬと思っているんだ。ワニの1日目は君の100日目かもしれないんだぞ。泣けたとか言ってるんじゃない、これは感動物語でも笑い話でもなくホラーだ!振り向けば君の後ろにある恐怖だ!なんだその無頓着さは。もう、僕は君たちがこわいよ。

後の祭り

ワニが死んだ直後にグッズ展開やらMVやら映画化やらが発表されたのは、僕としてはどうでもいい。ある作品を見終わった後に、どんなみそがつけられようが、作品を見終わったときの僕は不可逆だ。もう作品は終わったのだ。ワニが僕の作品ならまだしも、他人が自分の作品をどう扱おうがそれは自由にやれば良い。もっと言えば、僕がワニについて想ったことや考えたことは、作者にだって手出しはできないのだから、それほど騒ぐことでもない。もしかしたら、嘆いている人たちはこれも含めて作品として考えているのだろうか?だとしたら、それは物語を読むことが難しそうな考え方だな・・・。

ひとこと

「100年後に死ぬウニ」というパチもんを考えたのだが、twitter検索をしたら同じこと考えている人が何人もいたので、ふふっとなった。