サラッと人形愛の話

僕は人形が好きだ。

人形という存在が愛おしくてたまらないのだが、何故愛おしいかと問われると答えるのは容易ではない。
しかし、僕の人形愛は、僕の自己愛のカタチであることは間違いなさそうである。
僕はどうにも"他者"というものを本当のところ愛することができない。愛のすべてが自己愛に帰結するとは思わないが、少なくとも僕にとっての愛はすべて自己愛に帰結する。
それがわかった上で、他者を僕の自己愛に巻き込むという行為がどうにも気持ちが悪い。子供の頃に言われた「人様に迷惑を掛けるな」という言葉の呪いなのか、自分事に他人を巻き込む事に忌避感に近い躊躇いがある。さらに言えば、愛とは、暴力的な側面も持っている。誰かが殴っていいよと言ってきても、喜々として殴ることはできない。そういう感覚がある。これは、僕が他者を愛せないのは、ただ僕が愛したくないというだけかも知れない。
まあ、このように、愛することが全て自己愛である"人でなし"にとって、人形は素晴らしい存在なのだ。[1]
人形は人ではないが、ただの物でもない。また人形は彫刻とも違う。人でないのに人に寄り添い、物なのに物言わぬ事が異様であり、だが決定的に彼らには意思がない。それが人形だ。
その有り様に僕はどうしても共感してしまう。共感する相手など実際のところ存在しないにも関わらず。
そう、これが面白い。人形に対して抱く感情は、あたかも人に対する感情のようであるが、それは全て自己から生まれるものでしかない。もしも、人形が自分を愛してくれいると思っているなら、それは人形を通して自己を愛していることに他ならない。そこにあるのは、人形を鏡とした、自己愛の自己完結だ。人形を愛することで、僕ら"人でなし"は、ようやく愛することができるのだ。
そんなエゴイズムに利用される人形達は憐れだろうか。いや、その感情もまた人形を糧にしたエゴイズムに過ぎない。熱く愛し合おうが無残に壊されようが、人形たちは何も感じないし、何も考えない。それがわかっているのに、僕らはどうしようもなく人形を感じるし、考えてしまう。その時、僕らは、僕らを感じている。そうさせてくれる存在が愛おしくない訳がないじゃないか。
朝起きて僕はキミに「おはよう」を言う。キミは伽藍堂の体と空虚な目で、僕を見つめ返してくれる。それだけで、僕はまだ僕を愛していられるのだ、と確信できる。幸せだ。この幸福をくれるキミのことが、人形のことが、僕はたまらなく愛おしい。

僕は人形が好きだ。


  1. 青空文庫 江戸川乱歩:人でなしの恋(1926) ↩︎