英雄贋望

日々、社会で起きているニュースを見ていると思うことがある。
「この国はどうなっていくのか」「人々をより良い方向に導くにはどうすればよいか」「この国が長く解決しなかった問題はどう解決スべきか」など、そういうようなことを、ふと、思ってしまうのである。

そして、次の瞬間に、自己に対する呆れとともに、こう思うのである。
「なんで僕がこんなこと考えているんだ?」

僕自身に社会をどうこうする気など全く無い。もっと言えば他人をどうこうする気すら無い。それは単に僕が個人主義者であり自由主義者であることもあるが、本質的には他人に興味がそれほどないからである。[1]いや、抽象的、或いは全体的な"他人"には興味がある。それは、世界の一部としての"他人"であって、決して、一個人を正面から捉えた"愛"あるものではない。僕は、そういう人格であるからして、冒頭のような"思いつき"をするは、そう考えるほうが「僕が面白いから」に他ならない。

つまりはこうだ。ある社会的な問題を目の当たりにしたとき、やはり僕はそれを物語として捉えており、どう展開したら面白い(エキサイティングで、アクロバティックで、スマート)かを考えてしまっているのである。それは、読者の視点であるし、神の視点[2]だと言い換えても良いかもしれない。如何せん問題の当事者意識というものは、凡そない。無責任なものである。

しかし、そう認識していても、僕は社会的なニュースを見て相変わらず"憂いて"しまうのである。この現象、或いは傾向を、僕は皮肉を込めて 「英雄贋望」 と呼んでいる。仮に僕が「英雄」であれば、この憂いも実のあるものになるだろうし、他人を巻き込む気概さえあれば「英雄志向」くらいにはなったかも知れないが、伽藍堂の憂いしかないのであれば「英雄願望」ですらない、と。[3]

いや、もしかしたらもっと質の悪いものかも知れない。なぜならば、僕は"憂う"ことも含めて、その問題を楽しんでしまっているからだ。英雄という存在を考えると、それは"敵"の存在を前提としなければ存在し得ない。それに自覚的な英雄もいるだろうが・・・、少なくとも"敵"の存在をありがたがってる英雄は、英雄とは言えないし、言いたくないだろう。


  1. 実際ところ、「他人に興味を持たない」という性癖は、子供の頃から「他人に依存してはいけない」と考えざるを得ない事情(大した事ではない)があったが故である。また「他人に興味がない」というのは、その強度が0であるということではなく、リミッタの閾値が他人より低いところにある、という意味である。端的に言えば「広く浅く」的な有り様だ。これの大きな問題は、誰かを好きになっても、本当のところで愛することが出来ない、という事なのだ。さみしみ。 ↩︎

  2. 神と言っても想像に易い陳腐な邪神か何かだろうが。 ↩︎

  3. 一応言っておくが、社会問題に対して意識が高い事自体を批判する気は全く無い。ただ、僕のように行動するわけでもなく、他人に自分の意見を漏らさず、一人で悶々としている輩は、その状況自体を自己が要求した結果でしかないことは認識しても良いかも知れない。片思いをしていて、そのことを誰にも言ってなかったのに、対象に恋人ができたら憤る、みたいな話じゃあないか。或いは単に自己保身のプライオリティが高いだけかも知れないが。 ↩︎